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2008年 10月 03日

丹生神社と明要寺

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淡河町と山田町の境に丹生神社があります。
丹生神社には丹生都比売命(にぶつひめのみこと)が祀られ、神功皇后が三韓征伐の途中(200年頃)この神社に参拝され戦勝を祈願された。丹生都比売命のお告げで赤い朱土を武具に塗って新羅と戦い戦勝したと云われています。

ここ丹生山には、明治時代まで明要寺がありました。明要寺の歴史は、欽明天皇の3年(541年)百済国・童男行者が百済から亡命し明石の浦に着いた。その時白髪の老翁が現れて、「お前は日本に有縁の地を求めているのか。ここから東北に山がある。」と言って持っていた独鈷を投げたので、童男行者はその飛んでいく方を追って丹生山に来た。この老翁は観世音菩薩となり、光明を放ち消えた。そして童男行者は、自らその尊容を刻んで本尊とし仰ぎ祀り、明要寺を開基した。

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童男行者は丹生山を耕して、堂塔伽藍十数棟を建て、東の峰には奥の院を建立して、梵帝釈天を安置した。これが山名に転じ帝釈山と呼ばれるようになった。
童男行者は明要寺を建立すると、丹生山の西の麓の志染郷(三木市)に高男寺を建てた。

丹生山に明要寺が建立され、三木市志染町戸田に童男行者と共に250人の百済人が住んだ。そのため食料難になり食料を求めるため、当時湖水であった淡河湖を干拓し、田畑を耕して食料を得ることにした。湖水をいかにして下流の志染に落とすか検討した結果、勝雄の宇洞を開索して戸田に落すことにした。一度に落とせば洪水になるので、徐々におとし、一年以上かかったと思われる。湖水を落とし百年以上かけて開墾された。

干拓が済むと村人と共に淡河町淡河の上山に登り田畑に区割りを付け、湖水の最深部に住吉神社(779年)と歳田神社(780年)を祀った。この頃が淡河庄の始まりである。
そして、この住吉神社が現在の淡河八幡神社である。

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丹生神社には、丹生都比売命と大国主命だ祀られていた。
平清盛は(1180年頃)日吉山山王権現(大山咋命)を祀り明要寺の守護神とした。そのため大国主命は麓の山田町東下に移転、大国主の徳を七つにたとえて七社神社と称した。
丹生神社は長く山王権現と称してきたが、明治2年神仏分離令により、明要寺は廃寺となり、丹生神社と改められた。

仏教の伝来は欽明天皇の時代に朝鮮半島の百済・新羅・任那との領土争いのあった頃である。そのため、日本と朝鮮半島との往来が多く、欽明天皇は仏教に深い関心を持ち、538年百済の聖明王が日本に仏教・経典を伝えている。
その聖明王の太子の童男行者が541年に明要寺を開基しているのである。
聖徳太子が仏教を取り入れ、寺院を建立するずっと前のことである。

仏教の伝来は、機会があったら紹介します。
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by kilo-kinosita | 2008-10-03 00:14 | 淡河町ぶらり情報


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